「簡単には超えられない橋」

「簡単には超えられない橋」

〇兜町=株の町

〇蛎殻町・人形町=商品先物の町

この2つの街を分けているのは鎧橋
超えそうで超えれれない物理的な橋
この違いは薄れてきたが、それでも経産省・農水省の町と財務省の町は歴然と違うはず。
蛎殻町は兜町を目指し、FXなどを通じて大衆化はしてきた。
しかしそれでも先物だけの世界と現物の世界は違う。

市場経済研究所の鍋島さんが書かれたものが興味深い。

明治を代表するジャーナリスト、横山源之助が「鎧橋両岸の光景」と題するルポを残していた。
明治44年(1911年)、今から100年前の蛎殻町の賑わいを見事に描いている。
蛎殻町にかかわる者には見逃すことのできない記録である。
当時は日露戦争景気の反動で兜町は輝きを失っていたが、米屋町は仕手が相次いで登場、熱戦を繰り広げていた。
「平凡に厭(いとい)ける者よ、衆愚に倦(う)める者よ。
汝の周囲を去り、汝の惰気(だき)を排して、米穀市場に輸贏(ゆえい。勝負)を決しつつある諸人物の行動に注意一番し来たれ。
彼等は利害の亡者である。
利慾の結晶である。
しかしながら清新の気は道徳を称する者に非ずして、むしろこの盲者の団体にあり。活力はこの蛎殻町に充溢している」
蛎殻町には清新の気と活力が横溢していた。
「取引所の中に入れば、喧々擾々、真に一面の活劇場である。
その喧騒は、喧嘩のそれでもなく、水天宮のにぎわいもあり、観音前の陽気もある。
しかも殺気充ち、争気みなぎり、浮いたような沈んだような一種異様の空気をもっておおわれている」。
今は昔の話だ。

同様に・・・。

蛎殻町のコメ相場が一番にぎわった大正時代から昭和初めにかけて、合百というバクチが盛んに行われた。
蛎殻町名物と喧伝された。
国民新聞社の「相場街秘聞」(昭和4年刊)に描かれている。
「毎朝、水天宮前や蛎殻町や人形町の各停留所で市電や円太郎バスを捨てて、ぞろぞろ米屋町に乗り込む人は、
幾百幾千あるか知らぬが、その中で本敷(証拠金)を出して清算取引をやっている連中はまずまれ。
そのほとんど全部─とはいわぬが八、九分までは合百を目当てとしている連中である」
米穀取引所で立つ前場引値(第8節)を当てっこするバクチだが、久松警察署でも黙認の形だった。
時に手入れを行うとその時だけはさすがにクモの子を散らすように表通りの人影がマバラになる。
しかしほどなく人であふれ返る。
歴史学者として高名な尾佐竹猛(ペンネーム無用学博士)が著書に合百のことを書いている。
「一体蛎殻町から兜町へかけては欲の渦巻くところである。
米穀、株式の両取引所があるのに加え付属の仲買人はいわずもがな。
これに関係ある有象無象が蟻の甘きにつくが如く集まる。
モグリの仲買人等より合百、薄張りからあらゆる詐欺師、賭博師連中から高等淫売まである」。
色の吉原と欲の蛎殻町・兜町を見ずして東京を語るに足らずというのが博士の持論である。

(櫻井)

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