「生きている」

「生きている」
 
東日本大震災の後に書いていたこと。
10年前のことだ。

改めて気がつかされるのは、この星は生きているということ。
大地は恵をもたらしてくれる存在であるとともに、凶暴であるということ。
祖先たちがこの星との共存共栄に苦難してきた姿が現代でも全く変わっていないということ。
結構厄介な物体です。
もっともこの表現。
この星を、株式市場に置き換えてみても意味は一緒。
恵と凶暴の同居は古今東西の市場で頻繁に見られる現象でしょう。
同じ市場なのに、ある人にはやさしく映り、別の人には冷酷に映るもの。
まったく厄介です。
 
そして当時行われていたのは今と全く同じ議論。
ヒトもマーケットも学習効果も成長もないということがよく分かった。

あちらもこちらも「PBR1倍は底値圏」のコメント。
確かに1倍を割れ込むと、その後時間軸は別にして反発してきたのが経験則。
「解散価値を下回っているのだから割安」というのは確かに説得力がある。
かといって、必ずしも1倍を割れ込まないという根拠はどこにもない。
リーマンショック時も3月の震災時も割れ込んだのは事実。
そして株価が解散価値以上に売り込まれるということは、人気離散の裏返しでもある。
 
そこで重要になってくるのは単に割安感ということだけではなく、未来シナリオ。
「復興復旧にはたぶん20兆円以上のお金がぶち込まれる」。
「サプライチェーンの回復は思ったより早い」。
「未定だった企業業績の見通しが思ったよりも急速な増収増益基調」。
「金利上昇→債券価格下落のシナリオが現実感を帯びてきた」。
こう言うシナリオがない限り、「PBR1倍割れ」は単なるお題目でしかなかろう。
 
 
《兜町ポエム》
 
「春の歌」
 
重い足でぬかるむ道を来た
トゲのある板をかき分けて来た
食べてしまった全てが塩漬け
 
長いトンネルをくぐり抜けた時
見慣れない赤に包まれていった
実はまた始まったとこだった
 
「どうでもいい」とかそんな言葉で汚れた
相場 今、放て
 
春の歌
愛と希望より前に響く
聞こえるか?
雲の向こうに映る株価にも
 
平気な顔でかなり無理してたこと
叫びたいのに懸命に微笑んだこと
買いの光にさらされていく
 
忘れかけた本当は忘れたくない
高値の場所をなぞる
 
春の歌
愛も希望もそれが相場だ
遮るなどこまでも続くこの道を
 
歩いていくよ投資家のままで孤り
幻じゃなく歩いていく
 
春の歌
愛と希望より前に響く
聞こえるか?
雲の向こうに映る株価にも
 
春の歌
愛も希望もそれが相場だ
遮るなどこまでも続くこの道を
 
今なら言えるだろうか 偽りのない言葉
輝ける君の未来を願う 本当の言葉
移り行く市場はまるで 投資家を急かすように
 
 
「株価」
 
株価 株価 ただ舞い落ちる
いつか生まれ変わる瞬間を信じ
泣くな株よ 今惜別の時、飾らないあの笑顔で さあ
 
株価 株価 いざ舞い上がれ
永遠にさんざめく買い物浴びて
さらば株よ またこの市場で会おう
さくら舞い散る道の上で」
 
サクラの美しさはある意味刹那的。
そして儚さの美学。
散り際寸前の満開への期待感。
儚いからこその高揚感。
美しいからこその憧憬。
春まで他の樹木と一緒に耐え忍んで梅や桃に先を越されながらも咲き始めたら一気呵成。
他者を寄せ付けずにそれこそ唯我独尊。
 
株式市場は日々正解のない問題を解いているようもの。
変数は多数に及ぶ超連立異次元方程式。
時間軸が未来なので、通過して初めて回答が提示される。
しかし、その回答は可変であり、容易に変化する。
 
「ハナミズキ」は「空を押し上げて、手を伸ばす、5月のこと」。
少し前倒しで風景を想像してみれば・・・。
「市場の我慢がいつか身を結び、果てない波がちゃんと止まりますように。
株と大好きな市場が百年続きますように」。
平和の歌にとっては、少し生臭いかも知れない。

(櫻井)

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